樺太1945年夏 氷雪の門 幻の名作と言われてました、
本作の公開が予定されていた1974年3月29日を目前に、
急遽、公開中止となってしまう。当時の新聞資料等は、
ソ連大使館から外務、文部両省に「反ソ映画の上映は困る」との抗議により、
配給会社が自粛に至ったと報道している。
6年前の2004年、貴重なフィルムが発掘された。
本作に助監督として参加していた新城卓氏が中心となり、
"映画「氷雪の門」上映委員会"を結成。フィルムをデジタル化し、
上映活動を展開。作品に出会った多くの方の熱い支持を受け、
今夏、36年ぶりの劇場公開となり
第七藝術劇場 十三まで行き見てまいりました、
◆ 語り継がなければならないこの史実
現在ロシア領サハリンと呼ばれるかつての樺太。1945年8月15日の終戦の混乱の中、この地で多くの日本人が死んでいった。8月6日、米軍による世界初の原爆が広島に、続いて8月9日には長崎にも投下された。同日、ソ連は「日ソ不可侵条約」を破り、満州、樺太に侵攻した。
本作『樺太1945年夏 氷雪の門』は、ソ連の侵攻作戦のただなかで、最後まで通信連絡をとり、若い生命をなげうった真岡郵便局電話交換手9人の乙女の悲劇を描いた真実の物語である。戦争は終わったはずなのに、何故、彼女たちは死を選ばねばならなかったのか。この映画はその深層に挑んだ。
◆ 空前のスケールで描かれた平和への願い
1974年当時、日本の映画界にしては珍しくスケールが大きく、製作実行予算が5億数千万を超えた超大作として話題を呼んだ。
戦闘シーンを陸上自衛隊が全面協力し、撮影場所も終戦時の樺太に似た地形を求めて、北海道全域をはじめ、御殿場、丹沢、大山、そして常盤炭鉱地にオープンセットを組み立ててロケを行った。原作は金子俊男の「樺太一九四五年夏・樺太終戦記録」。脚本は「幕末残酷物語」の国弘威雄、監督は「あゝ海軍」の村山三男、撮影は「早池峰の賦」の西山東男、美術は木村威夫。特に少ない資料の中から樺太の街を作り上げた木村威夫の美術は圧巻である。
◆ 36年ぶりの劇場公開!!
日本映画に、なぜか樺太を扱った映画はない。『樺太1945年夏 氷雪の門』こそ、樺太の史実と事実を残した唯一の映画である。企画・製作に9年もの歳月をかけ、試写会やアンケート調査を重ね、内容を吟味した末、完成に至り、文部省選定や日本PTA全国協など各種団体の推薦も受けていた。また、本作の期待度の高さは、前売り券の売れ行きが70万枚に達していたことからも伺える。しかしながら、本作の公開が予定されていた1974年3月29日を目前に、急遽、公開中止となってしまう。当時の新聞資料等は、ソ連大使館から外務、文部両省に「反ソ映画の上映は困る」との抗議により、配給会社が自粛に至ったと報道している。その後、東映洋画配給により、東映系、東映パラス系にて、劇場公開(北海道・九州)がされるものの、小規模で、実質的には日の目を見ることはなかった。
6年前の2004年、貴重なフィルムが発掘された。本作に助監督として参加していた新城卓氏が中心となり、"映画「氷雪の門」上映委員会"を結成。フィルムをデジタル化し、上映活動を展開。作品に出会った多くの方の熱い支持を受け、今夏、36年ぶりの劇場公開となる。
◆ 氷雪の門
北海道稚内の突端に、二本の塔が失われた樺太を遥かに望んで、厳しい風土に耐えて生き抜いた樺太島を象徴するかのように建つ女人像。戦争への怒りと、平和への願いを込めたこの塔は「氷雪の門」と呼ばれる。本作もこの塔と全く同じ願いを込めて作られた。
◆ 日ソ不可侵条約
1941年(昭和16年)に日本とソビエト連邦(ソ連)の間で締結された中立条約。相互不可侵および、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、及び、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を謳った声明書から成る。有効期間は5年であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされた(第3条)。
ソ連 北海道侵攻 自衛隊 在 一二三渡辺 Youtube 的最佳貼文
樺太1945年夏 氷雪の門 幻の名作と言われてました、
本作の公開が予定されていた1974年3月29日を目前に、
急遽、公開中止となってしまう。当時の新聞資料等は、
ソ連大使館から外務、文部両省に「反ソ映画の上映は困る」との抗議により、
配給会社が自粛に至ったと報道している。
6年前の2004年、貴重なフィルムが発掘された。
本作に助監督として参加していた新城卓氏が中心となり、
"映画「氷雪の門」上映委員会"を結成。フィルムをデジタル化し、
上映活動を展開。作品に出会った多くの方の熱い支持を受け、
今夏、36年ぶりの劇場公開となり
第七藝術劇場 十三まで行き見てまいりました、
◆ 語り継がなければならないこの史実
現在ロシア領サハリンと呼ばれるかつての樺太。1945年8月15日の終戦の混乱の中、この地で多くの日本人が死んでいった。8月6日、米軍による世界初の原爆が広島に、続いて8月9日には長崎にも投下された。同日、ソ連は「日ソ不可侵条約」を破り、満州、樺太に侵攻した。
本作『樺太1945年夏 氷雪の門』は、ソ連の侵攻作戦のただなかで、最後まで通信連絡をとり、若い生命をなげうった真岡郵便局電話交換手9人の乙女の悲劇を描いた真実の物語である。戦争は終わったはずなのに、何故、彼女たちは死を選ばねばならなかったのか。この映画はその深層に挑んだ。
◆ 空前のスケールで描かれた平和への願い
1974年当時、日本の映画界にしては珍しくスケールが大きく、製作実行予算が5億数千万を超えた超大作として話題を呼んだ。
戦闘シーンを陸上自衛隊が全面協力し、撮影場所も終戦時の樺太に似た地形を求めて、北海道全域をはじめ、御殿場、丹沢、大山、そして常盤炭鉱地にオープンセットを組み立ててロケを行った。原作は金子俊男の「樺太一九四五年夏・樺太終戦記録」。脚本は「幕末残酷物語」の国弘威雄、監督は「あゝ海軍」の村山三男、撮影は「早池峰の賦」の西山東男、美術は木村威夫。特に少ない資料の中から樺太の街を作り上げた木村威夫の美術は圧巻である。
◆ 36年ぶりの劇場公開!!
日本映画に、なぜか樺太を扱った映画はない。『樺太1945年夏 氷雪の門』こそ、樺太の史実と事実を残した唯一の映画である。企画・製作に9年もの歳月をかけ、試写会やアンケート調査を重ね、内容を吟味した末、完成に至り、文部省選定や日本PTA全国協など各種団体の推薦も受けていた。また、本作の期待度の高さは、前売り券の売れ行きが70万枚に達していたことからも伺える。しかしながら、本作の公開が予定されていた1974年3月29日を目前に、急遽、公開中止となってしまう。当時の新聞資料等は、ソ連大使館から外務、文部両省に「反ソ映画の上映は困る」との抗議により、配給会社が自粛に至ったと報道している。その後、東映洋画配給により、東映系、東映パラス系にて、劇場公開(北海道・九州)がされるものの、小規模で、実質的には日の目を見ることはなかった。
6年前の2004年、貴重なフィルムが発掘された。本作に助監督として参加していた新城卓氏が中心となり、"映画「氷雪の門」上映委員会"を結成。フィルムをデジタル化し、上映活動を展開。作品に出会った多くの方の熱い支持を受け、今夏、36年ぶりの劇場公開となる。
◆ 氷雪の門
北海道稚内の突端に、二本の塔が失われた樺太を遥かに望んで、厳しい風土に耐えて生き抜いた樺太島を象徴するかのように建つ女人像。戦争への怒りと、平和への願いを込めたこの塔は「氷雪の門」と呼ばれる。本作もこの塔と全く同じ願いを込めて作られた。
◆ 日ソ不可侵条約
1941年(昭和16年)に日本とソビエト連邦(ソ連)の間で締結された中立条約。相互不可侵および、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、及び、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を謳った声明書から成る。有効期間は5年であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされた(第3条)。