#由1860年尋找紅磡和觀音廟前世今生! 存世最早九龍區照片補充版 意大利攝影師Felice Beato
1860年古紅磡景貌,咸豐十年 香港開埠19年,160年前
古紅磡半島景貌,#紅磡臨海古廟發現! 約在今觀音廟位置(但文献記載紅磡觀音廟建於1873年,也可能是觀音廟前身天后廟)
紅磡是九龍最早填海開發地區,有故仔話紅磡一名 係呢一帶開發時,有工人開墾土地時,掘開某處土地時突然有紅色地下水噴出,當時民智未開,市民都以為龍脈被掘斷噴出龍血,紅磡因此而得名。
#1944年香港美軍在10月16日美戰機誤炸紅磡,香港居民死傷慘重!照片可看到轟炸紅磡區情況。
10月16日,發生盟軍誤炸紅磡民居事件,約300死300傷。當日下午約3時30分,盟軍出動28架B-24戰機在21架P-40及29架P-51機的護航下轟炸紅磡黃埔船塢造船廠,期間誤炸小學、防空洞及大批民房,其中被誤炸的防空洞存有大量煤油,大火共燃燒數日,紅磡街坊會小學遭盟軍轟炸黃埔船塢的炸彈誤中,被戰火摧毀;當時有數百師生罹難。有些學生去了旁邊的紅磡觀音廟躲避,抵達之時,廟己傾斜,沒有爆炸,但炸彈的衝力卻把廟震倒了,很多學生被砸死。區內三份二房屋被炸,約300名居民罹難。另8架B-25及8架P-40機飛到維港成功擊沉10只日軍船艦,日軍則報稱擊落14架盟軍飛機,多名盟軍機師被活捉。
紅磡觀音廟是香港九龍最大規模的觀音廟,位於紅磡差館里,由附近的居民於1873年籌建,現被列為香港一級歷史建築。
1880年代紅磡區只是一個突出在海灣畔的一個尖尖的小半島西南岸的岬地,其後陸續填出來的地方作為船塢用途,那對出的海灣叫「紅磡灣」。19世紀末期該處設有九龍船塢,後來由黃埔船塢收購。
根據《九龍城區風物志》文章描述,早年九龍紅磡除造船及船隻維修業外,還有製造英泥的工業。這家公司叫青洲英泥公司(Green Island Cement Company),於1890年在澳門的青洲開業,中華電力發電廠的舊廠址也成為海逸豪園;旁邊青州英泥廠就發展成工廠大廈。1991至1994年政府繼續發展紅磡灣另一端填海計劃,把昔日紅磡灣那剩餘凹入的灣角都填平,海岸線都拉直了,變成了今日之「半島豪庭」、「海濱南岸」等。紅磡灣這個海灣在地圖上消失了。
#歷史時空
同時也有3部Youtube影片,追蹤數超過12萬的網紅一二三渡辺,也在其Youtube影片中提到,三菱 零式艦上戦闘機 A6M零式戦闘機 Model airplane キー15 零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は大日本帝国海軍(以下、海軍と表記する)の主力艦上戦闘機。零戦(ぜろせん、れいせん。"ゼロ戦"とも)の略称で知られている(以下、零戦と表記する)。海軍の艦上戦闘機(以下、艦戦...
p-40 p-51 在 歷史時空 Facebook 的最讚貼文
#由1860年尋找紅磡和觀音廟前世今生!
1860年古紅磡景貌,咸豐十年 香港開埠19年,160年前
古紅磡半島景貌,#紅磡臨海古廟發現! 約在今觀音廟位置(但文献記載紅磡觀音廟建於1873年,也可能是觀音廟前身天后廟)(更正是機利士路不是(街)
紅磡是九龍最早填海開發地區,有故仔話紅磡一名 係呢一帶開發時,有工人開墾土地時,掘開某處土地時突然有紅色地下水噴出,當時民智未開,市民都以為龍脈被掘斷噴出龍血,紅磡因此而得名。
#1944年香港美軍在10月16日美戰機誤炸紅磡,香港居民死傷慘重!照片可看到轟炸紅磡區情況。
10月16日,發生盟軍誤炸紅磡民居事件,約300死300傷。當日下午約3時30分,盟軍出動28架B-24戰機在21架P-40及29架P-51機的護航下轟炸紅磡黃埔船塢造船廠,期間誤炸小學、防空洞及大批民房,其中被誤炸的防空洞存有大量煤油,大火共燃燒數日,紅磡街坊會小學遭盟軍轟炸黃埔船塢的炸彈誤中,被戰火摧毀;當時有數百師生罹難。有些學生去了旁邊的紅磡觀音廟躲避,抵達之時,廟己傾斜,沒有爆炸,但炸彈的衝力卻把廟震倒了,很多學生被砸死。區內三份二房屋被炸,約300名居民罹難。另8架B-25及8架P-40機飛到維港成功擊沉10只日軍船艦,日軍則報稱擊落14架盟軍飛機,多名盟軍機師被活捉。
紅磡觀音廟是香港九龍最大規模的觀音廟,位於紅磡差館里,由附近的居民於1873年籌建,現被列為香港一級歷史建築。
1880年代紅磡區只是一個突出在海灣畔的一個尖尖的小半島西南岸的岬地,其後陸續填出來的地方作為船塢用途,那對出的海灣叫「紅磡灣」。19世紀末期該處設有九龍船塢,後來由黃埔船塢收購。
根據《九龍城區風物志》文章描述,早年九龍紅磡除造船及船隻維修業外,還有製造英泥的工業。這家公司叫青洲英泥公司(Green Island Cement Company),於1890年在澳門的青洲開業,中華電力發電廠的舊廠址也成為海逸豪園;旁邊青州英泥廠就發展成工廠大廈。1991至1994年政府繼續發展紅磡灣另一端填海計劃,把昔日紅磡灣那剩餘凹入的灣角都填平,海岸線都拉直了,變成了今日之「半島豪庭」、「海濱南岸」等。紅磡灣這個海灣在地圖上消失了。
#歷史時空
p-40 p-51 在 歷史時空 Facebook 的最讚貼文
由1860年尋找紅磡觀音廟前世今生!
1860年古紅磡景貌,咸豐十年 香港開埠19年,160年前
古紅磡半島景貌,紅磡臨海古廟發現! 約在今觀音廟位置(但文献記載紅磡觀音廟建於1873年,也可能是觀音廟前身天后廟)
◆1944年香港,美軍在10月16日美戰機誤炸紅磡,香港居民死傷慘重!照片可看到轟炸紅磡區情況。
10月16日,發生盟軍誤炸紅磡民居事件,約300死300傷。當日下午約3時30分,盟軍出動28架B-24戰機在21架P-40及29架P-51機的護航下轟炸紅磡黃埔船塢造船廠,期間誤炸小學、防空洞及大批民房,其中被誤炸的防空洞存有大量煤油,大火共燃燒數日,紅磡街坊會小學遭盟軍轟炸黃埔船塢的炸彈誤中,被戰火摧毀;當時有數百師生罹難。有些學生去了旁邊的紅磡觀音廟躲避,抵達之時,廟己傾斜,沒有爆炸,但炸彈的衝力卻把廟震倒了,很多學生被砸死。區內三份二房屋被炸,約300名居民罹難。另8架B-25及8架P-40機飛到維港成功擊沉10只日軍船艦,日軍則報稱擊落14架盟軍飛機,多名盟軍機師被活捉。
紅磡觀音廟是香港九龍最大規模的觀音廟,位於紅磡差館里,由附近的居民於1873年籌建,現被列為香港一級歷史建築。
1880年代紅磡區只是一個突出在海灣畔的一個尖尖的小半島西南岸的岬地,其後陸續填出來的地方作為船塢用途,那對出的海灣叫「紅磡灣」。19世紀末期該處設有九龍船塢,後來由黃埔船塢收購。
根據《九龍城區風物志》文章描述,早年九龍紅磡除造船及船隻維修業外,還有製造英泥的工業。這家公司叫青洲英泥公司(Green Island Cement Company),於1890年在澳門的青洲開業,中華電力發電廠的舊廠址也成為海逸豪園;旁邊青州英泥廠就發展成工廠大廈。1991至1994年政府繼續發展紅磡灣另一端填海計劃,把昔日紅磡灣那剩餘凹入的灣角都填平,海岸線都拉直了,變成了今日之「半島豪庭」、「海濱南岸」等。紅磡灣這個海灣在地圖上消失了。
#歷史時空
p-40 p-51 在 一二三渡辺 Youtube 的最佳貼文
三菱 零式艦上戦闘機 A6M零式戦闘機 Model airplane キー15
零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は大日本帝国海軍(以下、海軍と表記する)の主力艦上戦闘機。零戦(ぜろせん、れいせん。"ゼロ戦"とも)の略称で知られている(以下、零戦と表記する)。海軍の艦上戦闘機(以下、艦戦と表記する)としては実質的に最終型式で、日中戦争の半ばから太平洋戦争[1]の終戦まで前線で運用された。
零戦は、大戦初期において、その長大な航続距離、重武装、優れた格闘性能により、連合国の戦闘機に対し圧倒的な勝利を収めた。このため、零戦は当時の連合国パイロットから「ゼロファイター」の名で恐れられた。しかし、大戦中期以降には、大量投入された連合国側新鋭機に対する零戦の機体としての優位は失われ、日本側のベテラン搭乗員の損失から、零戦の戦闘力も陰りが生じた。大戦末期には、他の多くの日本機と同様、特別攻撃機としても使用された。
零戦の開発元は三菱重工業(以下「三菱」という)である。生産は、三菱のみならず中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島製である。零戦は、アメリカ陸軍のP-51ムスタング、ドイツ空軍のメッサーシュミットBf109、イギリス空軍のスピットファイアなどとともに、第二次世界大戦期の代表的な戦闘機として知られている。
p-40 p-51 在 一二三渡辺 Youtube 的最佳貼文
三菱 零式艦上戦闘機 A6M零式戦闘機 Model airplane キー15
零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は大日本帝国海軍(以下、海軍と表記する)の主力艦上戦闘機。零戦(ぜろせん、れいせん。"ゼロ戦"とも)の略称で知られている(以下、零戦と表記する)。海軍の艦上戦闘機(以下、艦戦と表記する)としては実質的に最終型式で、日中戦争の半ばから太平洋戦争[1]の終戦まで前線で運用された。
零戦は、大戦初期において、その長大な航続距離、重武装、優れた格闘性能により、連合国の戦闘機に対し圧倒的な勝利を収めた。このため、零戦は当時の連合国パイロットから「ゼロファイター」の名で恐れられた。しかし、大戦中期以降には、大量投入された連合国側新鋭機に対する零戦の機体としての優位は失われ、日本側のベテラン搭乗員の損失から、零戦の戦闘力も陰りが生じた。大戦末期には、他の多くの日本機と同様、特別攻撃機としても使用された。
零戦の開発元は三菱重工業(以下「三菱」という)である。生産は、三菱のみならず中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島製である。零戦は、アメリカ陸軍のP-51ムスタング、ドイツ空軍のメッサーシュミットBf109、イギリス空軍のスピットファイアなどとともに、第二次世界大戦期の代表的な戦闘機として知られている。
p-40 p-51 在 一二三渡辺 Youtube 的最佳解答
Gloster Meteor Rolls-Royce Derwent Derwent Mk.V
原型は、フランク・ホイットル (Frank Whittle) のパワージェット社 (Power Jets Ltd.) が基本設計を手掛けた W.2 (Whittle Supercharger Type 2) を、生産委託先の自動車製造大手ローバー社 (Rover) が独自改良した W.2B/26 (B.26)。
ホイットルのオリジナルは実戦に耐える状態ではなく、後にランドローバー (Land Rover) 開発主任として知られるモーリス・ウィルクス (Maurice Wilks) らローバー社の技術陣が大幅な設計変更に着手したところ、頑迷なホイットルが激怒し、両者の対立は剣呑なものになった。
経験論に固執するホイットルとの軋轢に嫌気が差したローバー社は、W.2B プロジェクトに関する一切を、かねてからジェットエンジンに興味を示していたロールス・ロイス社に工場・人員ごと譲渡し、航空機レシプロエンジン用機械式過給器のスペシャリスト、スタンリー・フッカー (Stanley Hooker) らのチームが W.2B の開発を引き継いだが、何かと介入したがるホイットルには相変わらず手を焼いたと言われている。
先に、ローバー社で開発の進んでいた W.2B/23 (B.23) をウェランド (Welland) の名で量産化し、英初のジェット戦闘機グロスター ミーティア (Gloster Meteor) F.1 を進空させたロールス・ロイス社は、続いてローバー社とホイットルの反目の直接原因になった、改設計型 W.2B/26 (B.26) 案の実用化に着手した。これが後にダーウェントと呼ばれる物になる。
この W.2B/26 (B.26) は、一足先に実用化段階に達していたハルフォード H.1(後のデハビランド ゴブリン= de Havilland "Goblin" )と同様に、全長短縮の為ウェランドまで用いられて来た反転式燃焼器を廃し、噴流を迂回させずタービンに直接当てる標準的な方式に改め、蒸発管式予燃装置からルーカス (Lucas Industries) の燃料直噴器に換装したもので、当該改良により推力・安定性共に大幅に向上し、また構造が簡素化され製作容易にもなって、習作色の強いウェランドと直ちに代替した。
ダーウェントの成功に自信を深めたロールス・ロイス社は、アマチュア的で不安定かつ発展性が見込めない W.2 の基本設計を離れ、更にホイットルへの特許料支払回避も兼ねて、白紙の状態から設計し直した次作ニーン (Nene) で、遠心圧縮式 (Centrifugal compressor) ターボジェットエンジンの一つの完成形を打ち立てる。
これらロールス・ロイス社製ジェットエンジンの殆どにイングランドを流れる河川名の愛称が与えられている理由については、ウェランドの項を参照されたい。