感謝團友陳榮錦分享日本時代1931年臺中土牛公學校畢業照。土牛校名的由來應是清國時期漢番界線「土牛溝」通過該區的關係。
延伸閱讀:
http://zh.wikipedia.org/…/%E5%9C%9F%E7%89%9B%E7%95%8C%E7%B7…
☆☆☆☆☆
台灣回憶探險團 台灣回憶募集中,各位團友若有任何關於台灣的老照片、影片或是文獻,都歡迎投稿與大家分享討論哦~~!
台中市石岡區土牛國小,昭和6年的畢業照,1931年也就是民國20年,與歷屆至今的畢業照完全不同,每人尤其是男生表情各異,手上有幾種運動器具,姿態生動,創意不輸現今。真是讓人好奇那時校園怎麼了,與大家刻版日據時代學校完全不同。插腰混在人群中留小鬍子帶徐志摩眼鏡的是校長松本壽三先生,還不是站中間喔,真是經典!
同時也有2部Youtube影片,追蹤數超過122萬的網紅スロパチステーション,也在其Youtube影片中提到,また観たいと思っていただけたら チャンネル登録お願いします! http://goo.gl/Wt1Ufw 今回はメガガイア高崎店さんでの実践です! いそまるは今まで「銀と金2」に何度挑戦してきたと思いますか?! なんと6回!!今回が7回目になります! 7回目の世界線ではどんな結果に・・・ エル...
漢番界線 在 蔡正元 Facebook 的精選貼文
「有唐山公,也有唐山嬤」
台灣長久流行ㄧ句話:
「有唐山公,沒有唐山嬤」
這句話如果適用於
1621年以前
也許有些有意義
因為當時來台灣的漢人零零星星
應該都是男人
也不可能攜帶女眷
1621年
顏思齊以武力入台
建立十座殖民村落
已是帶有女眷的殖民團隊
1624年
荷蘭人入台
發現漢人有1500人
有男也有女
後來荷蘭人與鄭芝龍合作
從福建招募「中國外勞」
此時的台灣平埔族有4.5萬人
荷蘭人入台6年後
到1631年 台灣的中國人口
已有2000人
與荷蘭人在台人口相當
1633年
鄭芝龍擔任大明帝國的福建都督
福建發生旱災
鄭芝龍大舉招募飢民
組織移民團入台開墾
台灣的中國移民不分男女大幅增加
有「唐山公」也有「唐山嬤」
台灣的漢族人口快速增加
1634年
荷蘭人才從台南揮軍北上
降服西班牙人、漢人、北部原住民
1652年
台灣漢人郭懷ㄧ起義反抗荷蘭人
荷蘭人聯合平埔族消滅支持郭懷ㄧ的漢人村落
被殺的漢人有男有女計6000多人
1661年
鄭成功進攻台灣
當時台灣的漢人已達近15萬人
遠遠超過平埔族不爭不減的4.5萬人
可見福建移民船團的力量很強大
從1633年到1661年這27年間
使台灣漢族人口由1.5萬人
增加10倍達15萬人
這絕非「平埔嬤」的關係
1895年
清帝國割讓台灣給日本時
台灣的漢人已達300萬人
但是平埔族人口仍是4.5萬人左右
這證明漢族
仗著鄭成功和康熙的武力
福建偷渡船團的實力
「唐山嬤」的努力
儘管有戰爭和海禁
使漢族人口從15萬人在234年間
增加20倍達300萬人
台灣自此完全成為以漢族為主流的社會
1906年後到1938年
日本人開始有較完整的統計
證明:
1、閩南男子取平埔族女子通婚的人口不到0.5%
2、客家男子和平埔族女子通婚人口不到1.0%
3、平埔男子和閩南女子通婚的比例
卻從15%升到25%
4、平埔男子和客家女子通婚的比例
維持在4%到7%左右
這說明
平埔族在漢族人口佔絕大多數的優勢下
不斷的以很高的比例與漢族通婚
但始終只佔漢族的很小比例
結論是
『雖有很少數的平埔嬤
但絕大多數仍是唐山嬤』
更有趣的結論是
『有平埔公,但有更多的唐山嬤』
因為平埔男子娶漢族女子的比列
竟然高達25%
更詳細的資料
請參閱葉高華教授的文章
『終結幾個平埔血統論的流言 (三) 增訂
福佬外婚 』
流言三:由於漢人與平埔族大量通婚,
大部分臺灣人都擁有平埔族血統。
漢人男子與平埔女子通婚的案例確實存在。
張達京入贅岸裡大社而繼承大片土地,
便是一個經典的例子。
不過,跨族群通婚究竟有多普遍呢?
有沒有達到「大量通婚」的規模呢?
伊能嘉矩指出北投社與毛少翁社的平埔族,
「與漢人通婚的例子不多」[1]。
詹素娟引述 Melissa Brown (鮑梅立) 的研究指出:
“從清末到日治初期,頭社、吉貝耍、番仔田的平埔族
雖然已經與漢人有各種往來--說福佬話,進行水田稻作,
祭祖拜公媽,但他們一直維持著「熟番」
(或「gun hoan-a」) 認同,
在通婚關係上始終沒有跨越漢、番的界線。” [2]
何以漢番界線難以跨越?
鮑梅立的解釋是:“平埔族婦女之未能積極與異族通婚,
關鍵因素為「阮番仔無綁腳」(Gun hoan-a bo pak kha)。
異族通婚必須仰賴婦女,
但在「纏足」這項形諸身體的可見差異,
使平埔婦女無論如何過著漢人生活、衣飾容貌
如何與漢人沒有明顯不同,仍可以被輕易辨識出來,
影響其與外人的通婚。” [3]
假如鮑梅立的解釋是正確的,
那麼在 1915 年纏足被禁止以後,
漢人 (主要是福佬人) 與平埔族通婚的比例應該明顯增加。
根據各年度《臺灣人口動態統計》,
我們得以掌握跨族群通婚的情形。
福佬外婚的統計圖顯示
福佬男子與其他族群女子結婚的比例。
顯而易見地,97% 以上的福佬男子選擇族群內婚。
至於福佬男子與平埔女子結婚的比例,
在 20 世紀上半葉時未滿 0.5%。
亦即,每 200 個福佬男子當中不到 1 人與平埔女子結婚。
即使是在 1915 年纏足被禁止以後,
福佬人與平埔族的跨族群通婚也沒有明顯增加。
如此看來,纏足可能不是構成漢番界線的主要因素。
客家外婚圖顯示
客家男子與其他族群女子結婚的比例。
其中,大約 90% 的客家男子選擇族群內婚;
只有不到 1% 的客家男子與平埔女子結婚。
平埔外婚圖顯示
平埔男子與其他族群女子結婚的比例。
相較於福佬人或客家人,
平埔族選擇族群外婚的比例較高,
從 1906 年的 20% 左右逐漸上升到
1938 年的三分之一。
這個趨勢也反映:在 19 世紀或更早之前,
平埔族與漢人通婚的比例可能低於 20%。
按照臺灣社會主流的父系繼承制度,
一個漢人男子與平埔女子生下來的子女歸類為漢人;
一個平埔男子與漢人女子生下來的子女歸類為平埔族。
前揭三張統計圖顯示,
漢人男子與平埔女子結婚的比例很低,
而平埔男子與漢人女子結婚的比例較高。
這意味經由跨族群通婚的途徑,
漢人受平埔族血統的影響較小,
而平埔族受漢人血統的影響較大。
二次戰後的臺灣,
不再擁有日本時代那樣的跨族群通婚統計。
因此,要研究戰後的跨族群通婚,
只能透過抽樣調查或田野工作蒐集第一手資料。
人類學者李國銘分析屏東平原平埔族的戶籍資料,
發現在 1960 年代以前,平埔族幾乎不跟漢人通婚。
這些人說的是福佬話,
但寧願到遙遠的平埔族部落尋找婚配對象,
也不跟鄰近的福佬人通婚 [4]。
由此可見,平埔族與漢人之間的界線可延續至 1960 年代。
註釋:
[1] 伊能嘉矩著,楊南郡譯註,
《平埔族調查旅行 伊能嘉矩〈台灣通信〉選集》。
臺北:遠流,1996。頁70。
[2] 詹素娟,〈熟番身分論--
以日治時期的身分登錄為中心〉。
中央研究院民族學研究所,文化創造與社會實踐研討會,
2008。
[3] 同上。
[4] 李國銘,〈關於屏東平原少數民族二三事〉,
《台灣史田野研究通訊》,22: 57-64。
漢番界線 在 スロパチステーション Youtube 的最佳解答
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漢番界線 在 まとめまとめの Youtube 的精選貼文
【まとめのまとめ】
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中学校に入学したばかりのころ。
中1にして身長180cm弱、
体重100kgオーバーの
デブ男とクラスメイトと
なったのだが、
このデブ男、浅黒い強面で
言動は粗暴、
あっという間にクラスのイキ
がった連中まとめ上げいじめ
グループを形成した。
気の弱そうな奴はデブ男
率いるグループに小突かれ、
女子は胸を触られたり
スカートめくられるなど
やりたい放題。
皆、デブ男グループに
なるだけ近寄らないように
最初の1学期を過ごした。
最悪だったのは2学期の
始まりの席替えで俺の
真後ろの席にデブ男が
やってきたことだ。
今でこそ日本人平均以上の
体格を持つ私ではあるが、
当時は身長160cm
ちょいの痩せ型。
自己主張の弱い
「ただのガキ」である。
授業もろくに聞かず暇を
持て余したデブ男にとって、
おれは暇つぶしには格好の
標的だったのだろう。
授業中に背中を鉛筆で刺す、
定規で頭を叩く、
言いがかりをつけては拳で
殴るなどのちょっかいを
毎日のように受けた。
デブ男グループの連中も便乗
してくる。
すっかりいじめられっ子状態に。
やがてちょっかいでは済まさ
れないレベルに達し始めてきた。
そんな様子をたまたま教室の
前を通りがかった幼馴染の
親友Aが目撃したらしい。
Aは体形こそ俺と同じくらいだが、
頭脳明晰、スポーツ万能、
リーダーシップもある。
唯一難点があるとすれば自己
主張が強すぎて付き合うのが
たまに面倒になることだ。
Aは、よってたかって小突か
れる俺の無様な姿にとても
悔しい思いを抱いたらしく、
放課後俺を呼び出しキツイ
口調でこう言った。
「我慢していい時と悪い時がある」
Aとは幼いころから一緒に
剣道場に通った仲でもある。
競技としての剣道だけではなく、
組み合い、当て身など剣を
持たない状況での戦い方まで
指導する武術色の強い道場であった。
何かにつけて華のあるAに
比較して私は気も弱く
地味だったゆえ、
周囲も自分自身も気付いて
いなかったのかもしれない。
才能豊かなAともそこそこ
対等に渡り合える力は長年の
稽古で培われていたのだ。
そのことは俺自身よりAの
ほうがよく分かっていたのだろう。
「あいつ、ただのデブじゃん。
お前が負けるわけがない」
「でも相手は6人がかりだよ」
「烏合の衆が暴れる奴相手に
チームプレイなんかできない。
誰かひとり倒せばそれ以上の
反撃はない。
どうせなら頭を叩くのが一番。
(道場の)先生言ってたじゃん」
「先生じゃなくてどっかの
漫画でしょ、
それ」
「まぁ、思い切ってやってみなって。
先生は習ったことを喧嘩に
使っちゃいけないって言ってたけど、
このままじゃお前ずっとこの
生活続くぞ」
「…」
「お前は気合が足りないんだよ。
最初のうちにヤメロって
怒鳴っておけばこんなに
エスカレートすることは
なかったんだ」
「…」
A、これで同じ中1である。
とても同じ年のガキとは思えない、
時に煩わしく時に頼もしい存在だ。
俺とAとの関係は大人に
なった今でも変わらない。
そうは言われたものの、
普通の大人以上の体格を持つデブ男、
現在進行形で成長中。
そんな奴に「ただのガキ」
としてはやはり身がすくむ。
だが、その時は来た。
とある昼休み、教室の隅で
デブ男グループに
四方八方から頭をはたかれ、
けりを入れられ、罵声を浴びる。
シャツの前ボタンをぶち切ら
れ上半身がはだけたとき、
ついに俺の中でスイッチが
入り道場での稽古さながらの
気合を発しながら正面にいた
デブ男を両手で突いた。
重い。
体重差倍近くである。
突き押してもビクともしない。
すかさずデブ男の反撃が始まった。
頬を殴られたあと胸を突かれ
よろけながら数歩後退。
やっぱダメだと思ったとき
教室の入り口からAの声が聞こえた。
「間合いを取れ」
デブ男たち、見て見ぬふりを
していたクラスメイトたちが
俺とAをかわるがわる見る。
デブ男グループの一人が
「なんだよ、てめぇ」とAに
詰め寄る。
Aは難なくそいつを足払い
一つで床に這いつくばらせる。
この落ち着き払った態度、
まじ中1なんかい、こいつ。
だがその光景が俺に
落ち着きと勇気を与えた。
Aの言うとおりに間合いを
取りじっとデブ男を見たら、
パンチがのろいのろい。
デブだけに出足も鈍い。
猛スピードで絶え間なく
飛び込んでくる竹刀を捌く
ことに比べたらまったく
当たる気がしない。
一方俺のパンチは面白い
ように当たる当たる。
殴っては遠間に逃げを繰り返す。
ボクシングでいえばヒット&
アウェーってやつだろう。
ただ、体重の差はいかん
ともしがたい。
ボクシング経験者なら
これだけのスピード差のある相手、
チンあたりを打って一発
KOを狙うのだろうが、
俺は拳での
殴り合いに関しては基本的に門外漢。
そのことが逆に、著しい
体格差とパンチング技術の
つたなさゆえの”倒せない拳
”が延々と一方的にデブ男の
顔を叩き続けるというある
意味凄惨な展開を生み、
ついにデブ男は反撃どころか
防御の仕草すらできなくなり
鼻血だらだらで戦意喪失。
Aが割り込みその場の決着はついた。
Aは「よくやった、よく
やった」と俺の肩に手を回す。
デブ男グループはそのまま退散。
ギャラリーの
クラスメイト達はレスラーの
ような体格のデブ男に挑んでいった
「ただのガキ」の俺を驚きの
目で見ている。
その後担任と学年主任に俺と
デブ男は職員室に正座させ
られ延々と説教受ける羽目に
なるのだが、
デブ男の傍若無人な
振る舞いはすっかり息をひそめ、
クラスの秩序は回復した。
デブ男を殴っている最中俺は
ボロボロ涙を流していたようだ。
それ以来、俺は
「泣けば強い奴」という
評判が学内に広まった。
学年が変わりクラス替えが
あったものの何の因果かデブ
男とはまた同じクラスとなった。
だが、そのころにはデブ
男との関係性は決して悪い
ものではなく、
むしろ一緒につるむくらいの
仲になっていた。
拳が生み出す友情、
昭和ならではの話だろうか。
時が過ぎ中学を卒業後の数ヶ月後、
デブ男がスカウトされ
相撲界に入ったことを新聞の
地元欄で知った。
15歳で身長185cm、
体重135kg。
スカウトされるには申し分
ない体格かもしれない、
が、
あの出足の悪さで通用する
のだろうか?
元大関・朝潮などは、
180kgの巨体で
100mを14秒台で走るという。
正直、デブ男が通用するとは
思えなかった。
さらに数年経ち、地元の
お祭り会場の出店で焼きそば
売っているデブ男を見た。
頭に髷はなく、パンチ
パーマでアロハシャツ。
薄い色付きの小さなメガネ。
どう見てもあっちの世界の住人だろ。
ああ、やっぱりお相撲は
ダメだったんだ。
厳しい世界だもんな。
ただ、デブ男の周りには
チンピラ風情の連中が
うようよしている。
みなデブ男のことを兄さんと
呼んでいる。
こういうコミュニティを形成
できるところを見ると、
「ただのデブ」というには
過小評価なのかもしれない。
俺は中学のときと同じく
呼び捨てで声をかけてみた。
デブ男は満面の笑みで表まで
出てきて俺の肩を抱き
しばらく談笑し、
俺とその時一緒にいた友人数
名分の焼きそばをおごってくれた。
デブ男と対等の態度で接する
俺に対し、
チンピラ風情の取り巻きたち、
俺のことまで兄さんと
呼ばわりするようになった。
コイツ等、時々飲食店街で
たむろしているところに
出くわすのだが、
俺を見るとビシっと直立し、
「兄さん、お疲れ様です」と
頭を下げる。
これにはちょっと困惑もして
いるのだが。
周囲からなんか勘違いされそうで。
おれは立派なカタギであるがゆえ。
いじめられ体質を乗り越え
られたのはAのおかげもあるが、
やはりこのデブ男の存在
あってこそだと今では感謝も
している。
なんだかんだデブ男も憎めないな
やっぱ体鍛えとかないと
イジメには対抗できませんな
知能指数が低い人の文章だなw
一人称がコロコロ変わるのが
気になった
そこんとこは自覚している。
だからまとめきれずに
長文にもなるしのような
指摘も出てくる。
道場ってなんだよ天使な
小生意気の小林かよ
あ、そのマンガついこの前
BO●K ●FFで読破した。
俺のいた地域は剣道と柔道が
すっごく盛んで、
強い奴はたいてい学校の
クラブ活動にプラスして
道場に通ってた。
文中に出てきたA、小林の
ようなストイックさが少々似ている。
実際、「剣道、棒がなければ
ただの人」と柔道やっている
奴から言われたのをきっかけに、
手刀での居合い型稽古を
欠かさずやるようになったという、
そんな奴。
こういう話を読むと男って
いいなと思う
中1の時男子4人にいじめ
られてた女なので立ち向かうとか無理
140cmの30kgだったし
俺の通ってた道場の先生、
すっごく強い人だったけど、
大勢を相手にするのに一番
良い解決法は全速力で逃げる、
そして近づかないことだと
教えてくれたよ。
普段から、自分だけが知る
退路を作っておくことが
大事だとも言っていた。
いろんな流派があるんだよ。
キンケリ最高とか相打ちで
生き残った方が勝ちとか
よく骨法とか喧嘩空手とか
実践○○を謳う格闘技団体あるけど、
そこまで生臭い印象は
ありませんでした。
昭和初期、下手したら大正
時代の話みたい
時代的には80年代前半、
「荒れた学校」の問題が
ある程度落ち着いて代わりに
「葬式ごっこ」などの
いじめがクローズアップされた時期。
もう生き地獄だ!の時代やがな、
同年代やがな
それにしては文体が古めかし
過ぎやがな
夏目漱石辺りの時代の文学に
影響受ける世代だからかな
「坊ちゃん」しか読んだこと
ないけど、
それは言えるかもしれないw
結局さ、ガキの喧嘩って武道
やってるうんぬんよりも
心持ちの差なんだよね。
例えば、体格以外の要素で
ガキ大将とかになる奴の
一例に足が速い、
ってのない?
最もシンプルな形で自己を
誇示できるからね。
皆から一目置かれる状況に
慣れている。
剣道とか、いくら強くても
それを一般に示す機会って
そうそうないわけで。
ガキ大将と力を誇示だけの
いじめっ子は別だから。
文中の人物でいえば、
Aは不良でもいじめっ子でも
なかったけど、
ガキ大将というにふさわしい
存在だった。
ただ、その境界線というのは
非常にあいまいだったり、
時にイコールというケースも
多いのではないかな。
デブ男はそういった意味で、
ガキ大将でありいじめ
主犯格でもあったのだと思う。
確かに今のいじめというのは
誰がリーダーというわけでもなく、
これといった形のない、
得体のしれない空気感の中で
醸成されているような気もするね。
よくそれだけ事細かに憶えて
いるもんだな
いじめって、やった奴は軽い
気持ちだが、
やられた奴は克明に覚えて
いるもんだよ。
見て見ぬふりをしていた奴ら
一人一人の視線まで
思い出してその時の孤独感が
よみがえってくる。
実際、その後仲良くなった
デブ男との間であの時
こういうことされてキツかった、
みたいな話したら、
帰ってきた答えが
「全然覚えてない」だったから。
「何かのきっかけで大喧嘩したよね」
とい