策展訊息 :
台北駐日經濟文化代表處台灣文化中心 歲月之旅–張照堂攝影展
歳月の旅–張 照堂写真展 ( 2015 / 9 / 1 – 10 / 30 )
レセプション : 2015 / 9 / 1 (火) 14 : 00 – 15 : 00
特別講演会 : 2015 / 9 / 1 (火) 15 : 00 – 16 : 30
司会 : 菅沼比呂志(ガーディアン・ガーデン/プランニング・ディレクター)
講師 : 瀬戸正人(写真家), 張照堂(写真家 / 台南芸術大学名誉教授), 沈昭良(本展キュレーター / 写真家)
開館時間: 10:00-17:00(土、日曜 & 祝日休館)
会場 : 台北駐日経済文化代表処 台湾文化センター
〒105-0001 東京都港区虎ノ門1-1-12 虎ノ門ビル2階
http://jp.taiwan.culture.tw/content_32.html
2013年9月,台北市立美術館為張照堂舉辦了名為「歲月照堂」的大型回顧展,展覽整體採編年式架構,分別為「少年心影」(1959-1961)、「存在告白」(1962-1965)、「裝置 / 塗鴉 / 原作」(1966-1986)、「社會記憶 / 內心風景」(1970-2005)、「數位發聲」(2005-2013)與「歲月容顏」(2005-2013)等六個主題,內容除了放大與輸出的攝影作品400餘件,也包括8部紀錄影片、裝置、拼貼、攝影原作、編輯刊物、繪本、手稿、歷年展出文宣等等,橫跨張照堂過去所涉略的電影、紀錄片、攝影、現代藝術、文學、劇場、出版等領域。
展出期間,除了吸引成千上百各個世代,不同領域的觀眾留連駐足,更引發相關的學術著述與研究討論,展出規模之全面,影響之深遠,可說是國內攝影藝術圈有史以來所僅見。不僅完整呈現張照堂的影像風格與美學品味,更確立其在台灣攝影與跨領域影像發展脈絡上,承先啟後的卓越成就與崇高地位。日本著述家暨愛知三年展總策展人港千尋,即曾在現代美術學報中坦言:「張照堂不只是一位傑出的攝影家,更是每個國家只可能僅會出現一兩位的那種藝術家。」
張照堂,1943年出生於台北縣板橋鎮(現新北市板橋區),父親為執業醫生,兄弟姊妹共七人排行第五,初中三年級時,向大哥借了一台Aires Automat 120相機把玩,卻也因此開啟了他不凡的影像人生。成功高中時期,參加攝影社團受教於鄭桑溪,其後雖進入台灣大學土木工程系就讀,反倒積極參與藝文活動,廣泛閱讀現代、存在主義文學,並開始觀念性的攝影創作。
大學畢業後分發至離島澎湖服役,退伍後的1965年與鄭桑溪共同發表「現代攝影雙人展」,迥異於當時唯美沙龍與社會寫實的現代視覺語言,自然招來當時傳統攝影圈頹廢消極的惡評,但卻也引起美術與文學界的鼓舞與關注。1968年張照堂進入電視台,從事新聞採訪、專題製作與紀錄片拍攝。1974年也曾瀟灑舉辦了「攝影告別展」。其後二十餘年,他全面性參與紀錄片與電影劇情片的拍攝製作,1997年就任國立台南藝術學院(現國立台南藝術大學)音像紀錄研究所教授,傳道授業,提攜後進不遺餘力。1998年籌劃首屆台灣國際紀錄片雙年展。生涯迄今獲頒有金鐘獎、金馬獎、國家文藝獎及象徵最高榮譽的行政院文化獎等重要獎項。
出生及成長在台灣的張照堂,歷經日本殖民、國府統治、黨外運動、解除戒嚴及總統直選等時期,自初中三年級的接觸相機以來,作品從不為針對特定議題的計畫性拍攝,反而幾乎都是工作之餘的隨性抓取,卻也因此定調了獨特的攝影風格,同時據已清晰回應伴隨他的歲月和時代。誠如評論家郭力昕所言:「張照堂成長於一個極度壓抑、苦悶的年代,並且在這樣的時代氛圍裡,走過了他創作的精華歲月。臺灣的這個時代背景,政治空氣是高壓、肅殺的,攝影文化是空白或貧乏的,張照堂的攝影藝術,就在這樣的政治與文化悶局裡,迸出了一個獨醒的、清越的高音。」
張照堂的作品,除了初中時期作品所展露的直觀純粹,大學時期則因喜愛接觸現代文學與藝術,面對當時台灣社會的政治高壓與思想箝制,攝影頓時也成為他抒發內心寂寥與撫慰外在荒蕪的材料,此時期那些塗抹的白臉、頭套塑膠袋和無頭身影的作品,在日後更被視為台灣現代攝影語法轉向的重要實踐。退伍後,進入媒體工作的張照堂,持續透過觀景窗,緊貼著台灣社會的氛圍與脈動,在城市、巷弄、荒郊和鄉野間,大量超現實語境與荒謬劇場式的作品,引人緘默也發人省思。其後,順應數位時代的來臨,張照堂援用了科技的便捷,將其轉化為攝影表現的另類可能,先前曾在「歲月照堂」回顧展中,陳列展示的拼組作品<夢遊-遠行之前>與<台灣-核災之後>兩系列實驗性組作,則是2005年進入數位時代後持續進行的創作類型。
綜合過去對於張照堂作品相關論述與研究的歸納,普遍將其創作風格,定調為抵抗當時台灣所處高壓統治與社會處境的精神性衍生,透過其所獨具的攝影眼,心理的,身體的,尋常的,淡然的,直覺的,進一步提出對於現狀的某種超脫與預知。然而,對照張照堂初中時期所拍攝的「少年心影」系列作品,其中所大量穩定展現,有別於那個年齡世代應有的尋找與凝視,很顯然的,他的成就,應不只是時代的重壓與凝鍊所積累而成,有相當確定的一部分,是那一股自幼在他身體血液裏,早已循環流淌的豐富素質與內斂情感。
此次受邀在台灣文化中心展出的23件作品,主要是挑選張照堂在1970-1990年間所拍攝,聚焦在社會記憶與內心風景,同時也回應本展”歲月”與”行旅”意象的精要式集結,除了作品本身的時間跨度,足跡也行旅式的遍及基隆、台北、桃園、苗栗、新竹、嘉義、屏東、宜蘭、花蓮和澎湖等地。其中,望安島上的少女容顏,阿里山上的日出遠眺,鼻頭角港邊的餘暉小憩,算命看板前的晃動身影,水岸邊的駐足凝望,車廂理的沉睡舒醒…。時而匆忙,時而停歇,時而展望,時而掩面,時而奮起,時而喘息。讓我們在人物近景與環境身影的視覺導引下,橫向與縱向的氛圍轉折中,重返那個蒼茫年代,重新經歷那個靜謐時空,領略張照堂在漫長的歲月行旅中,不斷遺落卻又不斷拾起的無盡視野與動人話語。 文 / 沈昭良
2013年9月、台北市立美術館で、張照堂(ジャン・ジャオタン)の大型回顧展「歳月/照堂」が行われた。展覧会は年代別の構成を取り、「少年の心」(1959-1961)、「存在の告白」(1962-1965)、「インスタレーション / グラフィティ / オリジナルプリント」(1966-1986)、「社会の記憶 / 心象風景」(1970-2005)、「デジタルでの発信」(2005-2013)、および「歳月の表情」(2005-2013)という六つのテーマに沿って、大きく引き延ばされた400点余の写真作品のほか、8本のドキュメンタリー映像作品、インスタレーション、コラージュ、オリジナルプリント、編集に関わった印刷物や絵本、手書き原稿、過去の展覧会のチラシやポスターなどが展示され、これまでに張照堂が関わって来た、映画、ドキュメンタリー映画、写真、現代美術、文学、舞台、出版など様々な領域を横断する展覧会となった。
会期中は、おびただしい数のあらゆる世代の観客だけでなく、様々な領域で活動する数多くの観客が足を運び、ここから学術論文や研究討論が生まれた。展示規模は全面的であり、展覧会が社会に与えた影響は計り知れず、台湾の写真芸術史上においても稀な事件であったと言ってよい。展示は、張照堂の写真スタイルやその美学を完全な形で伝えていたのみならず、台湾の写真や領域横断的な映像の歩みにおいて、張が先人の成し遂げたものをさらに刷新していく卓越した存在であることを強く印象づけた。日本の写真家で愛知トリエンナーレ2016の芸術監督を務める港千尋は、(台北市立美術館発行の学術誌)現代美術学報において、「張照堂は、傑出した写真家というだけでなく、いずれの国にも、ひとりかふたり出て来るか、というような芸術家である。」と述べている。
張照堂は、1943年に台北県板橋鎮(現在の新北市板橋区)に、医者である父のもとに、七人兄弟の五番目として生まれた。中学三年生の時、兄にアイレス・オートマット120というカメラを借りて遊び始めたことが、彼を、後の非凡な映像人としての人生へと導くことになった。成功高校に通っていた頃には、写真サークルに参加して鄭桑溪(ジェン・サンシー)に師事し、その後台湾大学土木工程学部に入学したものの、専門の勉強よりも芸術文化活動にいそしみ、近代文学や存在主義文学を読みあさり、コンセプチュアルな写真制作を行い始めている。
大学を卒業した張照堂は兵役に就き、離島の澎湖に配属された。退役後の1965年には鄭桑溪とともに「現代写真雙人展」を行い、当時の唯美的サロン写真や社会リアリズム的な近代視覚言語とはまったく異なる作品を発表した。当然のことながら、当時の伝統的な写真界においてはデカダンで消極的だという悪評を招いたが、美術界や文学界からは激励され、注目を集めることとなった。1968年に張はテレビ局に入社、ニュース取材のほか、特別番組やドキュメンタリー映画の撮影に従事した。また、1974年にも、曾瀟灑(ゼン・シャオリー)と「撮影(写真)告別展」を行っている。二十数年ほど、精力的にドキュメンタリー映画やドラマ映画の撮影に関わった張は、1997年には国立台南芸術学院(現・国立台南芸術大学)の音楽映像ドキュメンタリー研究所の教授となり、後続の育成に力を注いだ。1998年には、第1回台湾国際ドキュメンタリービエンナーレの準備に関わっている。これまでに、金鐘賞、金馬賞、国家文芸賞および台湾にて最高栄誉とされる行政院文化賞などの重要な賞を受賞している。
台湾で生まれ育った張照堂は、日本の植民地支配、国民党による統治、党外運動(訳注:民進党誕生以前の台湾における民主化運動)、戒厳令解除や、総統直接選挙などの時代を生き抜いてきた。初めてカメラに触った中学校3年生の頃から、作品は特定のテーマに沿って計画的に撮影されてきたわけではないが、むしろ仕事のあいまをぬって気ままに撮り続けてきたことが却って、独特の写真スタイルをそこに定着させ、ともに歩んだ歳月と時代とを、はっきり映し出すようになった。これについて、評論家郭力昕(グォ・リーシー)は次のように述べている。「張照堂は極度に抑圧された苦悶の時代に生まれ育ち、そのような時代の雰囲気の中で最も優れた作品を生み出した。この時代の台湾の政治的空気は高圧的・粛殺的であり、写真文化は空白でないとしても非常に貧しいものであった。張照堂の写真芸術はそんな政治・文化的に鬱々とした状況にあって、孤高の澄み切った高音を響かせたのである。」
張照堂の作品は、中学校時代には直感的な純粋さをみせていたが、大学時代には、彼の近代文学や芸術への傾倒のために、当時の台湾社会の高圧的な政治や思想統制へと向き合い、内面の寂寥を表現し、荒寥とした外界への慰めとなった。この時期発表された白塗りの顔や、頭に被ったビニール袋、頭のない身体を写した作品などは、その後ますます、台湾近代写真の語法を転換させる重要な実践であったと見なされるようになった。兵役からの退役後マスコミでの仕事を始めた張照堂は、それ以降もファインダーをとおして、台湾社会の雰囲気や脈動に切迫する大量のシュルレアリスティックで不条理劇的な作品を、都市や路地、荒れた郊外や農村で撮影し続け、観る者を沈黙に導き、内省を促した。その後張はデジタル時代の到来に順応し、そのハイテクの利便性を用いて、写真表現の新しい可能性を追い求めた。先の「歳月照堂」回顧展で展示された《夢遊—遠行の前》と《台湾—原発事故後》のふたつの実験作品シリーズは、2005年にデジタルカメラを用い始めて以降、張がずっと取り組んでいるものである。
これまでの張照堂の作品についての論文や研究には、その作品スタイルを、当時の台湾の高圧的な統治や社会状況に身を置くことで生まれる精神性との関連について語るものが多い。独自の撮影眼をとおした、心理的で身体的、さらりとして飄々とした直感的な表現だと捉え、さらには現状に対するある種の超越を提言する予言だとする。しかしながら、張照堂が中学校時代に撮った「少年の心」シリーズの、大量で安定した表現と比べてみると、このくらいの年の少年が当たり前に持っている探究心や対象の凝視とは、明らかに異なっていることがわかる。彼が成し遂げたことは、時代の重圧と精錬の蓄積のみによるものとは言えないだろう。そこには幼少時より彼の身体の血の中に循環していた写真家としての豊かな素質と、含蓄に富む情感が、必ず影響していたはずだと思うのだ。
今回台湾文化センターで展示する23点の作品は、張照堂が1970年から1990年のあいだに撮影したものを中心に選び、社会の記憶と心象風景に焦点を当てた。これらは同時に、先に述べた展覧会の「歲月」と「旅」の意象から精選したものでもあり、作品がくぐり抜けて来た長い時間だけでなく、作家が基隆や台北、桃園、苗栗、新竹、嘉義、屏東、宜蘭、花蓮や澎湖などの各地を旅した足跡を辿るものともなっている。望安島の少女の表情や、遠くに臨む阿里山の日の出,鼻頭角港の傍で夕焼けを眺めながらのひとやすみ、占いの看板の前で揺れ動く人影、水辺で足をとめて遠くを見つめる人、電車の中で眠ったり気持ちよく目覚めたりする人々…。時にあわただしく、時にゆったりと、時に遠くを眺め、時に顔を隠し、時に奮起し、時に息を荒くする。我々は、近景の人物と周囲の物影という視覚に導かれるように、水平や垂直の雰囲気の変化の中で、あの蒼茫たる時代に立ち戻り、あの静謐な時空を再び体験する。張照堂の長い歳月をかけた旅の中で、絶え間なく置き去りにされ、また絶え間なく掬い上げられてきた無限の視野と、心を動かす物語を味わいながら。
テキスト/ 沈昭良(シェン・ジャオリャン)
同時也有2部Youtube影片,追蹤數超過3萬的網紅Sena Shimotsuma,也在其Youtube影片中提到,今回の動画では、これまでにリクエストを多くいただいた「英語学習」についてお話をさせていただきたいと思います! 僕の名前は世成(せな)で、福岡県出身の23歳です。英語を初めて学んだのは中学校入学がきっかでした。そこから英語が大好きになり、僕はニュージーランドに高校留学という形で渡航し、高校修了後に現...
音楽評論家 外国人 在 Sena Shimotsuma Youtube 的最讚貼文
今回の動画では、これまでにリクエストを多くいただいた「英語学習」についてお話をさせていただきたいと思います!
僕の名前は世成(せな)で、福岡県出身の23歳です。英語を初めて学んだのは中学校入学がきっかでした。そこから英語が大好きになり、僕はニュージーランドに高校留学という形で渡航し、高校修了後に現地の国立大学に入学しビジネスを専攻しました。
大学卒業後は教育業界、ニュージーランド現地の会社で2年半程働いております。この2年半でインターン→セールス&マーケティング・コーディネーター→営業マネージャーという形でステップアップをしながら仕事をさせていただいております。
僕は英語ネイティブではないですし、英語の先生でもありません。しかし、僕がこれまで試してきた勉強方法やマインドセットを活用すれば、英語を使って人とのコミュニケーションを取ること、英語で新しい情報や知識を学習すること、海外就職なども実現が可能になると信じています。
よってこの動画では、僕が英語を学び始めた2010年の中学入学当初~現在までどういう道のりでの学習や勉強方法を試してきたのかについて詳しくお話をさせていただきますので、楽しんで観ていただければ幸いです!
英語学習であったり、何か自分が大好きで情熱があるものを専門的に学ぶ楽しさというのは、このチャンネルで皆様とシェアしていきたいものになっています!
面白いと思ったら動画の高評価やシェアをお願いします!
コメントや質問等もコメント欄でお待ちしてます:)
Follow me on Twitter and Instagram!
Twitter: https://twitter.com/Sena_Shimotsuma
Instagram: https://www.instagram.com/senadropsanicecream/
#英語学習 #英語勉強 #英語上達方法
音楽評論家 外国人 在 ブライトサイド | Bright Side Japan Youtube 的最佳貼文
サスペンス映画の神様。スリラーとホラーの巨匠。そう、彼の名前はアルフレッド・ヒッチコック。誰もが知っているこの人物。古典映画の裏に隠された彼の本性を見てみたいですよね?作品同様、ヒッチコック自身も奇妙な個性を持っています。
例えば、彼は卵に対して恐怖症を持っているなんて、みなさん知っていましたか?実際、彼は人生で一度も卵の黄身を食べた事がないと告白しています。また、ヒッチコックは約81年の人生の中で、一度も車を運転した事がありません。とは言え、車が怖かった訳ではないんです。警察に止められる事を恐れていたんです。彼の時代の映画やテレビ番組に関しての最大な不満についても、今回のビデオで紹介していきます!
音楽:
Epidemic Sound https://www.epidemicsound.com/より
関連ビデオ:
ホラー映画俳優たちの素顔 https://youtu.be/zo4osRt6nnk
どっちを選ぶ?究極の選択!モラルジレンマ6選 https://youtu.be/0vx0lp5_TgQ
タイムスタンプ:
ナイトの称号への長い道のり 0:34
アカデミー監督賞を一度も受賞しなかった 1:45
彼の「脂肪の鎧」 2:19
卵嫌い 3:34
警察が怖い 4:17
自身の作品が怖い 5:06
変わった常識の破り方 5:47
金髪へのこだわり 6:52
自身の映画にカメオ出演 7:34
素晴らしい映画の秘密 8:16
ネタバレはなし! 9:14
裏でずっと支えてきた女性 9:57
#ヒッチコック #ホラー映画 #ブライトサイド
プレビュー画像引用元:
ヒッチコック、アルフレッド 英国の映画監督、プロデューサー、脚本家、ロンドン 1899年8月13日―ハイウッド 1980年4月29日 ポートレート写真、1972年:akg-imagesより/EAST NEWS、https://www.eastnews.ru/pictures/picture/id/57200007/i/28/t/127
アニメーションはブライトサイドにより作成されています。
概要:
―1962年、アルフレッド・ヒッチコックは大英帝国勲章第3位の称号を授与するとされました。でも、非常に名誉ある賞にも関わらず・・・ヒッチコックは受け取らなったんです!
―彼の映画人生でヒッチコックは長編映画を50作品ほど監督しましたが、アカデミー監督賞を受賞した事は一度もありません。
―少し「重い」話になりますが、スリラー映画のマエストロは、自分の体形をあまり気に入ってはいませんでした。自分自身の体を「脂肪の鎧」と呼んでいたのですが、実際、この体型が彼を一度救ってくれたんです。
―「黄身が割れて、中から黄色い液体が流れ出るのを見る以上にぞっとするものを見たことはあるかい?」これがまさに、みんな大好きな朝食の定番、卵に対する彼の意見です!
―警察に対する恐怖は、彼の幼年期に遡ります。彼の父親と地元の警察官は、いたずらに対する報いを教えようと、幼いヒッチコックを数分間刑務所に入れたんです。
―ヒッチコックはある時、「自分の作品は怖いです。絶対に見に行きません。なぜ人々が私の作品を見るのを耐えられるのか、理解できません」と言いました。
―ヒッチコックの作品には、浴室やトイレでのシーンが多くあるんです。当時、映画の中でトイレのシーンはタブー視されていたのですが、ヒッチコックはそれが馬鹿らしいと思っていました。
―ヒッチコックは、金髪女性が主役になる事を好んでいました。彼によると、スクリーン上では「金髪は最高の犠牲者になる」との事。
―本当のファンはヒッチコックが自身の映画によく出演する監督である、と言うでしょう。作品の半分以上で、カメオ出演しているんです。
―ヒッチコックが当時、映画やテレビ番組に関して抱いていた最大の不満は、それらが「話をしている人の写真」に見えていた事でした。
―ヒッチコックは脚本の扱いには特別注意を払っており、展開やどんでん返しを全て極秘にすることを最優先としていました。
―ヒッチコックの妻は、音楽以外の映画製作においても大きな役割を果たしました。映画評論家のチャールズ・チャップリンはかつて、「ヒッチコックの作品は4つの手によって作られている。うち二つは、アルマの手だ」と書きました。
ブライトサイドのチャンネル登録 https://goo.gl/31w525
-------------------------------------------------------------------------------------------
ソーシャルメディア関連
5分でできるDIY Youtube https://goo.gl/ffui6
----------------------------------------
声の提供
Koji Asano